愛と資本主義

自主性が無い人間の孤独な毎日が有益であるものか。

 

関東に来てから1年3ヶ月が経とうとしている。

基本的に休日の予定は無い。偶に大学時代のサークルの先輩に誘われて飲みにいくぐらいしか、休日に人に会うことは無い。

一時期は東京で知り合った人間に誘ってもらい飲み会などに数度参加したりもしたが、馬が合わず今年の春を最後に会わなくなってしまった。

ほとんどの休日を家の近くの海に面した公園で一人で過ごしてきた。

もともとの趣味である楽曲やイラストの作成はいつしかあまりしなくなった。

創作を行うためにはエネルギーが必要で、これといって何も無い、少しだけ悪いことが起き続けるだけの日々でモチベーションを維持できるだけのバイタリティーは無かったし、行う意味も必要も正直言って無くなっていた。他人と関わらなければ自己顕示欲を維持する必要性はなかった。そもそも誰か他人にベクトルが向いているものではなかったので、意味自体最初から無かったのだけど。

一人になって言葉というものは他人とのコミュニケーションのために存在しているということを再認識した。

昨日は久しぶりに絵を描いた。

今日は鍵盤に向かってみたがいいフレーズが出なかったので曲は出来なかった。

誰かと演奏するのは楽しいけど、一人で延々練習して、曲を作るのは楽しくも無いなと思った。

台風が来ていたので映画を見に行くことをやめた。

家の近くの駅前のショッピングモールに赴いたがすでにほとんどの店が閉まっていた。

家の前の公園に大きな水溜りが出来ていたのでフラットスキムボードを嗜んだ。

家に帰ってから暇だったので、30歳までに詩が書けるようになりたいと思い、また練習に日記を書こうと思ったが特筆することも無いので特筆することでもないことを書いた。

ベトナム戦争を描いた漫画を最近読んでいる。

戦争が起きればいいと思った。

戦争が起きて欲しくないと思える人間が、嫌味や卑下する訳ではなく羨ましいと思う。

こんな毎日でも失うことになったら大切さに気づくのだろうか。

そう思っている矢先、地元への異動が決まった。少しだけ、今の生活を失うのを勿体無く思った。