やさしくなりたい

つくづく自分の心の弱さが嫌になる時がある。

 

他人と話すのが苦手だから、知らない人が沢山いるところに行くのが苦手である。環境が変わる度にその行為を行わないと孤立するため、仕方なく行う事が多いのだけど他人と話すのが圧倒的に苦手なので苦痛だと思う。孤立することは人付き合いがない、という点では楽であるのだけど、その他にたくさんの能力が必要になるので、難しいと思う。他人と関わる時に、いくら取り繕おうとも内面が腐ってるのでとても失言が多い。他人に嫌われることばかり言ってしまう。他人と何を話せばいいのかわからないので話はとてもつまらない。それでも自分に話しかけてくれる人がいることは有難いと思う。自分は許されながら生きているんだなと思う。自分も他人を許しながら生きていきたい。大きい心を持ちたいといつも思う。あと面白い話ができるようになりたい。課題は多い。

他人が自分と関わるメリットというものが自分には人間性の観点からすると明らかに欠落しているので、他人が自分と関わることでメリットを得られるような能力を備えておくようにしてはいるのだけども。他人と関わるのが面倒臭いという怠惰が強い。他人は容姿も優れていて、話も面白くてフランクで、技術や能力もたくさん持っていて凄いと思う。自分にはそういう物がないので他人と関わる難易度が高いと思う。

他人を許す、自分とは違う考え方を認める行為は大事だとは思うのだけど、理解出来ないことを理解する事が苦手である。脳味噌のスペックが低いので経験しなければ理解できないことが多い。出来るだけたくさんの事を経験してたくさんの事を考えたいと思う。大体の他人に対して害のある行動と言うものは、その人の弱さから来るものなので、そういう甘えを許せる人間になりたい。自分が弱い人間であるのでそういうのは理解出来ることが多い。自分は理性を持ってそういう害のある行動は抑制しようと思う。それによって行動が起こせなくなることもある。

傷ついた分だけ、人間は強くなれるとは思わない。物凄く深い傷を負えば、浅い傷に鈍くなることはあるかもしれないけども、それが強さであるとは思わない。頑張れ、とか、そういう言葉が苦手である。悲しければ無理して立ち上がる必要もないかもしれないし、悲しむ必要もないこともあるかもしれない。忘れてしまえるような事は大抵どうでもいい、どうでもよくないことだから悲しいと思う。どうでもよくないことは、その人のアイデンティティを形成する大事な要素であると思う。悲しいことは、自分にとって都合の悪いことであるから悲しくなるのだと思う。逆に嬉しい事は自分にとって利益のあることであるので、他者への攻撃性を孕んでいると思う。単純に他人に対して自分の幸福を見せびらかすような行為はあまり好ましくないことではあると思うけど、利益というもの自体が他者の損益から生まれるものであるので、他人に対し何かしらの害を与えうる感情であるので手放しに喜んではならないと思う。そういった損益のある人間に対して責任を負う必要があると思う。あるとは思うけど、これは自分にとっての考えであるから他人に強要してはいけないと思う。個性を大切にすることと、多様性を認めないことは似ているようでとても異なっていると思う。他人の好みを理解できないのは、単に自分の経験の不足からくる理解力の不足であり恥ずべきことであると思う。人によって幸福はとても違う形をしているので、自分の幸福を他人の幸福だと考えることは間違っていることが多いと思う。社会的に幸福だと思われていることを追い求めた挙句、やっとの思いでそれを捕まえた時にそれが幸福でなかったら取り返しがつかないと思う。社会的に間違っているとされる事が、最も幸福であると定義している人間は大変だと思う。何か行動を起こす事は苦しいことなので、たくさん苦しみたいと思う。苦しんだ分だけ生きるのが器用になればいいと思う。