やさしくなりたいpart2

昔、好きだった人が「好きなタイプはのび太さんのような人」って言った時、周りの人は勿論えーってなってたんだけど、僕は素敵だと思った。

 

のび太は、欲望に弱くて怠惰で、頭が悪いから行動は浅はかで裏目に出るし、これといった取り柄はないんだけど、優しい人間であると思う。彼が弱者側の人間だから、損をする人や悲しむ人に入れ込むのは良心がある人間であれば概して特別であるわけではないと思うのだけど。

ドラえもんっ子の僕は「おばあちゃんの思い出」が好きだった。単純に死んでしまったおばあちゃんとの感動話で見る度に涙を禁じ得ないのは言うまでもないのだけども。歳を取るにつれ、のび太のおばあちゃんののび太に対する愛情のかけ方がとても興味深いと思った。自己犠牲的に傍若無人のび太の我儘を聞き入れ、大っ嫌いと言われても言うことに従い続ける姿勢、これこそが愛の、優しさの一つの正解であると思う。我儘というものは、甘えであり、それを受け入れるという行動は基本的に相手には感謝されないものであり、本人の直接的利益にはならないと思う。だけれども、甘えられるということは信頼されている証であり、頼られるということなので、愛する人に甘えられるということはとても価値のあることであると思った。勿論甘やかすっていうのは教育上は良くないと思う。結果的にのび太は怠惰で傲慢な人間に成長しているし。それでもそういった愛を受けたからこそ、のび太の優しさというものが育まれたのではないかと思う。

反対に、本人のためにあえて厳しく叱るというのもまた愛や優しさの答えだと思う。あえて嫌われてまで、その人のために悪い点を指摘するという行為は、難しい行為であると思う。

 

愛も優しさもキャッチーではないし、難しい行為であると思う。どちらにせよ、対象の相手を第一に考えるのが重要であり、見返りを求めてはいけないと思う。好かれたいとか、感謝されたいとか、相手を意のままに変えたいとか、そういうった欲を捨てて、相手にとって何が一番いいのかを考え続けることが必要であると思う。好きな人間を利用してはいけない。好きな人間の不幸を願ってはいけない。好きな人間の隣にいるのが自分でなくてもよいのだし、好きな人間の幸福が間違ってたっていいのだ。誠実であることは理性的であることで、動物的かつ本能的かつ生存競争的な観点からすれば偉く間違ってるとも思う。それでも僕はそうあるべきであると思う。難しいことなのだけど。

 

今日の昼下がり、黄金色に染まる那須塩原の町のなか、木々の日陰にいる僕からは西日に当たった道路標識の柱が、えらく輝いていて暖かそうに見えた。その時に、あまり実感が湧いてはいないのだけど、僕もまたそちら側に漸く行けたことを思い出して、やるべき事を考え、行動し続けなければならないと思った。悲しい後悔のないように。