誰にも聞こえない

知人(友人と書く自信が無い)の劇を見た。

初回なので感想は書けないけれど、久しぶりに文字を打ちたい気分になったので僕のことを書く。

 

僕は去年からよくライブハウスで自分で作った曲を演奏しているのだけど、今年の三月からめっきり曲が描けなくなってしまった。アイデアはあるのだけどそれを形にしようとしても上手くいかなかった。それでも月に三、四回ライブをこなしていたのだけれど、お客さんは月に一人来るか来ないかだし、誰にも必要として貰えないような強い気持ちになってしまい、正直気持ちが折れてしまった。いい曲であるといってくれる人も幾人かはいるのだけれど、自分でもそれなりにはいい曲ではあると思うのだけど、その気持ちを押し通すことは難しいことであると思う。お客さんを呼ぶために出来ることは沢山あって、それをやっていないのだから仕方の無いことで、気持ちが折れること自体傲慢であると思うけれど。

よく書くけど、人間は自分の事をよく知らない生き物であると思う。事実、どれぐらいの人間が自分の事を影で悪く言っているか、どれぐらいの人間が自分の事を好いているか、そういうことを正確に認識できる人は多くはないと思う。完全に他人に認識されないで社会から孤立して生きる人間なら、顕在意識で自分を認識したことが自分にとっての自分足りうるとは思う。けれど、多くの人間にとっては他人が認識するその人が持つウェイトは少なくなくその人であると思う。

そういうのを認識するのはとても難しいと思う。他人はその人にその人の印象を細かく話すことは稀であると思うし、印象を細かく伝える事もまた難しい事であると思う。僕はいつも他人と自分だけが深く繋がっていないような気がするけど、それはきっと事実であるしそして大多数の人がそうであると思う。人は人と深く関わることを基本的に嫌がる生き物であると思うけど、僕はそうでは無いから認識差が生まれるのだと思う。きっと他人から必要とされるような人間ほど、他人と深くは関わらない事を望むのだ。僕は誰にも必要とされていないからこそ誰かと繋がりたいと望むのだ。というよりも、僕が深く繋がりたいと思われるような人間ではないことがいけないのだけれど。人は繋がりたい人と繋がるものだし、輪に入る人と入れない人がいることは当たり前だと思う。全てがそうではないのかもしれないけど、僕と僕が見る他人の見えない壁を可視化するための原理として、限りなく解と近似していると思う。物理学でいうところの定数みたいな話。

そんなことを思ってから僕は他人とあまり関わろうとしなくなってしまった。きっと昔みたいな大きな幸せは来ないかもしれないけど、きっと深くは落ち込むこともないだろう。自分らしく生きるということはいつだって、1種の諦めなのかもしれませんね。

 

僕はできるだけ他人に色々と思ってることを伝えようと努力してきた。努力してきたからこそ、他人に思いを伝えることがとても怖く思うことが沢山あった。伝えないと後悔するかもしれないからと伝えて後悔することも沢山あった。伝えるのを躊躇って後悔したこともあった。後悔しないためにはできるだけ正しい選択をしなければならない。そういう事ばかり考える人生は疲れるものであると、いつも思う。

 

色々頑張ろうと思った。僕はいつだって他人に認められたいのだから。